昭和57年9月20日 朝のご理解  入力者松本正宏


 御理解第二十六節 「信心に連れはいらぬ。ひとり信心せよ。信心に連れがいれば、死ぬるにも連れがいろうが。みな、逃げておるぞ。日に日に生きるが信心なり。」

 日に日に生きるが信心なり。生きておるもの、いうなら生きとし生けるもの、それが神恩あり難しという心で報謝の心をいよいよあつうして生きるのが信心だと。生きておれば誰でも信心という意味ではない。神恩を感じる。そこに神恩報謝の生活。その神恩報謝の生活というものは、ここで五つの願い、まずは体の丈夫を願う、これはどうでも願わなければならない事ですよね。体の丈夫を願う。家庭に不和の無きが元。これもどうでも願わなければならない事。それが子孫繁盛家繁盛にもつながっていくおかげもどうでも願わなければならない事。次に、ね、真の御用が出来ますようにという願い。これは大変難しいとおもうですね。毎日生きておる、毎日御用をしておる、それが御用じゃないのです。神恩を感じながらそれに報い奉るための御用でなからなければ。
 神願成就の為のお役にお使い頂きたいというその願い、合楽で言われる五つの願い、私最近合楽の場合、表行という事を全然致しませんので、この心行信行家業の行と言われる家業の行がもう本当に御用になる願いに焦点をおいて日々をすごさせてもらう。そういう生き方。そういう生き方こそが私は日に日に生きるが信心なりという事だと思うのです。商売をする人が、商売に忙しゅう一日を過ごした。お百姓をする人が今日も一日まあ、お野菜作りならお野菜つくりに専念した。というその内容がね果たして御用であったかという事なんです。ね。ただ、そろばんだけを持ったり、ね、ただ、自分を中心にしてのそれが働きであるとするなら、それは御用ではないでしょう。自分中心ですから御用ではなくて、私の御用、私用である。一つ足りない。その足りないところをです、いよいよ御用足らしめる。為に信心の稽古、いよいよ神恩を感じてその神恩に対し奉る日々の働きこそ、それが御用である。ね。御用であるという事はね、神様が必ず受けてくださるのである。天地に還元出来るのである。働きそのものが。
 これはいよいよ自分の一日の働きというものを見極めて、今日も本当にあり難い御用が出来ますようにと願いに願っておっても私用になっておるところを改めていよいよ御用が出来る。本当の御用が出来る。神様に通う御用が出来る。神様に喜んで頂く御用が出来る。それが日に日に生きるが信心なりという事はそういう事です。本当の御用が出来る日々でなからなければならん。ね。だからいうならば新しい命、日々自分というものを空しゅうしなければ出来ることではない。先だっての、二三日前でしたかね、私の朝の御祈念のときに、体がこんなに最近悪いですけれども、その悪い事を忘れてしもうて、小二時間の御祈念をさせてもらうのですが、それを神様と、私ある時に、我を忘れると言うふうに申しましたが、あれは我を忘るるでしたよ。ちょっと、訂正します。我を忘るる。自分を我を忘れてのいうならば御祈念である。教祖様が言われる此の方は人が助かることさえ出切ればという、一念を燃やしていくと我を忘れる事になる。もう自分の事は忘れて人の助かることさえ出切ればという事を祈っておる。ですから、御用というのは忘れる、我を忘るる、というほどしのものでなからなければ。儲かるから儲からないからと言う事ではない。そこに、私はまあその、手始めとしてね、お野菜を例えば作らせてもらう、おかげでこんなにも見事にお野菜が出来ましたと、お礼を申し上げる。いや、私が手入れした私が作ったという思いではなくて神様のおかげでこんな立派なお野菜が出来たと心からお礼を申し上げる時に、神様がそうじゃない、おまえ達が一生懸命に耕したり、種を蒔いたり、肥料を施したり、して初めてこんなに立派に出来たのだと。いや神様のおかげなしには出来ませんと、神様と私共がお礼を言い合えるような関係こそが段々本当の御用になっていく事です。今日も一日働かせて頂きましたという事。こういうような成果があがりましたと。おかげで、例えば自分が働いたから、自分が頑張ったからこれだけの事が出来たという思いを捨てて、神様のおかげで今日一日ようございましたとお礼を申し上げる時に、神様もまたいや、おまえ達が精進努力をしたから出来たんだと、いいえ神様あなたのおかげでとこうお礼を言い合える世界。ね。そういう実感のこもる一日一日でなからなければならない。それには、それこそ我を忘るるほどの思いを込めて一日一日が過ごされていかなければならない。昨日は、伊万里の竹内先生、ここの筑水青年会の会合に講師として、招かれておりましたが、昨日久留米で、皆さんもおいでられた方々いくらもありましょうが、講演会がある。それで、今から直接ここへ見えられまして、まあ、今日一日のまあ、あり難い御用が出来ますようにという御届けをなさいました。朝、出掛けに朝の御祈念をして、テープを頂かせて頂きましたら、丁度、54節でございましたと。伊万里で聞かれるのが。何日か前でしょう。その時にははあ、54節という事は御用。良い御用をしてくれよと神様から願われておる思いでございました。その思いで、今日は出させて頂いたと。また、ここでその方お取次を願われますから、今の、とにかく我を忘るる、我を忘れて御用に専念する。おかげを頂かれたらよいでしょうというて、まあ、申した事でございますけれどもね、お互いが御用した御用したともうしますけれどもね、その御用が、ね、我情でしたり、我欲でしたりするならもう御用ではない。私用です。私用では神様に通わんのです。還元にならんのです。天地に対する還元に。昨日私は昼、ここに座りますが、丁度このお届け帳の最後のところに久富繁雄さんのお届けがしてあった。毎日朝の御祈念に参ってみえるともう、昼頃まで御用を頂いて帰られます。ね。その事を私ここで、御届けをしてございましたから、お礼を申させてもらいましたら、もう、それこそ大空いっぱいに大きな文字を頂いたのです。分からんでしょうかね。こういう文字。こうしたような文字。もう大空一杯にこう頂いたんです。はあ、私はすぐ直感いたしました。これはいよいよもって私自身が、天地人一如の世界に私が住まわなければならないなあと思いました。
 でなかったら例えば繁雄さんが、我を忘れて自分の事は置いて、半日なら半日の御用をしていってくださるのだ。それが天地への還元になってくる働きになってこなければいけないのだ。その働きがです、私が人間心であったり我情我欲であったとしたならばせっかくの繁雄さんの御用が死んでしまう事になる。私も天地人一如の世界を目指しておる。繁雄さんも無条件で御用をなさっておられる。初めてそれが天地への還元。私への還元が、のようであるけれども、私が天地人一如であるならばですよ、もう天地へ還元した事と同じ事になるということを頂いてからもう大変な事だなあと思いました。これは例えば私がです、ね、例えば我情我欲の人間であった、それに私のことに誰か一生懸命御用をして下さる方がある。するとこれは両方ともおかげを頂かん事になりますでしょうね。そこで私は昨日この事を思わせて頂いたのですけれどもね、そんならお互いが天地人一如の世界、教祖様がいわれる所の此の方が祈るところ、天地金の神と一心とか同根とかと仰せられる。もう天地と同じだとこう言っておられる。自分のことを。だからこれは教祖様のものと思うておったけれども、段々おかげを頂いて思わせて頂く事は天地人一如の世界を目指しておる私であり皆さんなんだと。
 天地日月の心になろうと一生懸命精進する事は、天地の中に入って行こうという精進なんです。だから大変な事なんですよ。合楽で言われる天地日月の心というものは。天地が水ならこっちも水になろう。天地が泥ならこっちも泥の心になろうという精進なんです。そこを段々と天地人一如の世界に住まわせて頂けるもし、私であった時に、私に奉仕してくださる方は必ずおかげを頂くという事になるのじゃないでしょうか。天地に還元していきなさる。還元という事はお供えという事だけではない。体を持って奉仕をする。それも天地に対する還元。だから今日皆さんにどうでも分かって頂きたいことは御用なんです。私用ではない御用が日々出来る時に女の方々と言えば御飯を炊くでも、お惣菜を作るでも、それこそ、じいさんは山に芝刈りに、ばあさんは、川に洗濯にというそれぞれの、お役目をです、ね、果たさせて頂くという事が御用なんだという精神でです、ね、御用させてもらう時に、もうそれはそのまま天地が受けて下さる。天地の還元になるのです。ね。これはもういよいよ持って、私自身天地人一如の世界に入らなければいけないなあ。沢山の人の奉仕を受けておるのですから。それが無駄になるようなことになるような事があってはならないなあとまあ思わせて頂いたことです。ね。
 私に御用して下さる方達に、まあ昔そんな事を言ってました。あんたな、私に一生懸命御用しよるごたるばってん私を守しよると思いよるばってん、ほんなこつはあんたが、私から守されておるとばのち言うて言ってましたことがある。そういうような、ね、働きや働きというものが、起こってくる。天地の間に。ね。人と人との間に。ね。御用の内容が。そして、その御用を頂いていったら、すぐ、山本さんが親子三人で昨日あちらのご姉妹の式年祭でしたから、古川先生と若先生と、四名の先生方で奉仕をしました。二三日前に、山本さんのお姉妹の御霊様ですから、その、まあ、お供えもさせて頂いて、玉串だけでもあげさせて頂きたいと前からしておりました。それで、どういう風な、にさせて頂いたらよかろうかという御願いがありましたから私、申しませんでした。今日の御理解を頂きなさい。そこから、答えを出しなさい。二三日前でした。それで、ご理解を頂いてこれは、何事にも信心になれというのが本当だと言うて、もういわば、本式に、式年祭を仕えられました。これは大変な賑やかな、丁重なお祭りでした。見えておられるのはご両親と山本さんと三人でしたけれども、ね、あれはもう本当に素晴らしいお祭りでしたが、三人がここにお参りになったら途端に頂いた事が、やっぱ、繁雄さんと同じこれでした。天地にかける大きな、この、のしを頂いて、その、のしの中に、書いておるけど分からんでしょうね。ここに、のしのここの中に、始めに、森という、いや林か。林という字を頂いた。木を二つ。そしてそれに、もう一つ、気を添えて頂いたから森という字になるでしょう。これは親子三人の真心という事と思うた。木は心と仰る。林二つという事は両親という事でしょう。それにいわば、お姉妹である山本さんの木を三つ合わせた森という字になった。そして、このお祭りが仕えられた。いうならね、昨日でしたかね、あの真という事。真を親子三人で現した。沢山のお金も掛かっただろう。昨日のお祭りは。けれども、それが全部天地に対する還元に、御霊のお祭りをすりゃ御霊が直接助かるのではなくて、ね、そこに還元がある。もう心で拝んでおきゃよか、玉串一本あげておけばよいというようなものじゃいけん事が分かりますね。
 出来るだけ沢山な出来るだけの真を尽くせば尽くすだけ天地に対する還元になる。天地に対する還元になるから天地の喜びがあるからまた、ね、死んだからというて神のお世話にならんわけがいくまいが。死に際にも願えと仰るように、いうなら御霊たちがその、遺族の還元によって助けて頂くという事。沢山のお供えをしたからという御霊が直接頂くという事ではない。天地の親神様に一遍還元、それが還元という事で受けてくださるから、遺族の者も助かる事になり、御霊も助かる事になります。もういよいよ数日後に御霊のお祭りがございます。みんなの合楽に関わりある御霊が全部集まります。その御霊に玉串一本あげさせて頂くというだけではなくて、本気に一つ、真を込めてのいうなら、還元をなさる事を決心しなければなりません。ね。天地に対する還元になるのです。親子三人の真というものがです、はあ、それと言いこれと言い、繁雄さんの上に、その神様が還元とこういうて下さる。その時に私自身です、これは私に対して奉仕して帰れらるのですから、私自身が天地と同じ心にならなければ出来ないなあ、いよいよ、天地人一如の世界に私が入らなければならないなあと思いました。そこで私は中々初めからそういうわけに参りませんから、その思いとして、先ほど、お百姓さんが野菜を作る時の要領です。おかげで種を蒔いたらもう芽を切りました。もうこんなに育ちました。こんなに見事に実りましたとこう、神様に対する喜びの声をそれこそ、あげるような思いで、野菜に接する、そこに神様が、いや、おまえ達が一生懸命種を蒔いたり、肥料を施したり草をとったりしたからこんなに見事に出来たんだと。いいや神様あなたのおかげでと言う事になってくるわけです。そこでね、いうなら私共の場合どういう事にならなければならないかと言うと、神様どうぞ、ね、神様のいうなら手にも足にもならせて頂けれるようなご信心を頂かせて下されい。それが御用なんです。ね。神の手にも足にもならせて、ここで修行しております、先生の場合なんか全く、そうです。神様、神の手代わりとこういう。神の手代わりを本当に出来るような教師にお取立てくだされい、神様の手にも足にもならせて下さい。なら、これは皆さんでもそうです。ね。本当に、神様の手にも足にもならせて下されいというような願いと信心が出来る時にです、ね、皆さんが天地人一如の世界に住んでいかれることになり、ならその御用がです、天地へさえずるこの、神恩報謝の心ともなり、御用と言う事になるのです。だから御用は必ずしも教会とか、私が奉仕せんならんという事ではない。
 そういうなら繁雄さんが私に奉仕してくださる心を持って、帰ってからもまた御用でなからなければならんという事です。私は五つの願いの中にある御用というのが、何かこう、軽い感じで今まで頂いてましたけれども、ここ数日間、これは御用という事は大変な事なんだなあと、本当の御用が出来なければならないのだと、ね、その御用が我情我欲の為の私情であったり、私用であったのではこれはせっかくの合楽で言われる行というものが、行にならない。家業の行が行にならない。神様が受けて下さらん。日に日に生きるが信心なり。そんなら信心があっても信心が薄くても毎日毎日こうして生きておるから、それが信心かというのじゃない。日に日に生きてそうした御用が出来るから信心だと言う事なのでございます。ですからそれぞれのいうならば立場で、なら御用があるのですからそこにはもう、あの人の真似ということは入らんという事。信心に連れはいらんという事はそういう事だと思う。これは私でなからなければ出来ないという御用をです、本当に御用足らしめる為の、精進、本当に今日は結構な御用をさせて頂いたと、神様にお礼を申させて頂いたら、神様からまたお礼のお言葉が出てくるような御用でなからなければいけないという事です。日に日にいきるが信心という事は御用が御用になった時に、初めて日に日に生きるが信心という事になるのじゃないでしょうかね。
                                     どうぞ